おばちゃんと二人三脚

おばちゃんと二人三脚

おばちゃんとさくらが一緒に遊んだり運動したり勉強したりしてきた記録です~アルツハイマーの新しい治療法「リコード法」を始めました~

拝啓

拝啓 朝日新聞

創刊140周年記念事業の一環として、認知症をテーマに社会に問題提起をしていこうという御社の姿勢に感銘を受けました。当事者の思い、家族の思い、それをとりまく社会の思い、人それぞれ多様であり、少しずつですが理解も深まってきているようにも思います。
一方で、認知症の治療に対しては、早期発見・治療が大切ということがいわれているものの、具体的にどのような治療をすればよいのかという情報が少なく感じます。たしかに、認知症になっても安心できる社会は素晴らしいですし、認知症になっても人間らしく生きることは十分に可能であり、そのことは本人・家族にとってとても希望を与えるものであります。その反面、認知症の症状は多様であり、進行が遅いものもあれば早いものもあり、徘徊(朝日新聞ではこの言葉は使われないのでしたね)・暴言・妄想といった問題はとても家族内では解決できないことも多く、社会でそれをうけとめる土壌もまだ十分ではないと思います。そのような状況の中、認知症の診断を受ける人が我が国で毎日1000人生まれているという現実を考えると、認知症になっても安心な社会であるというだけでは、社会や家族がうけとめられる限界を超えてしまい、気がつけば取り返しのつかない問題にもなりかねないと思われます。
現在の日本の医療界においては、依然、認知症は治すことができないという前提のもとに、進行を遅らせるためという名目で服薬治療を中心に行われているのが現状です。それは、軽度認知障害と診断された方も例外ではなく、確実に認知症を遅らせるための医療を提供されているものではなく、もっぱら本人・家族の努力に任されている、いや、悪くいうと責任転嫁されているといえるのではないでしょうか。認知症になった本人・家族にとって、認知症の診断を受けて最初のショックを受け、医者から進行を止める治療がないと伝えられ二回目のショックを受け、病気にあらがうことをあきらめざるをえなくなりまたはその気力を失わされ、せめて認知症になってもよりよく生きることができる社会を望むようになります。だからといって、本人や家族は、決して、認知症になっても安心できる社会があるから認知症になってもかまわないし、治らなくてもいいとは思っていないと思います。
日本の医学の常識では治らないとされ、あきらめていた本人・家族のあいだで今、アメリカから軽度認知障害であればよくなる可能性があるとされる治療法が紹介されました。日本では「リコード法」と呼ばれています。これを知ったものは、認知症がよくなるのではと思い、医者のもとに駆け込むのですが、アメリカ生まれのこの治療法は、日本では治療はおろか検査すらしてもらうことができません。本来、患者の味方であるはずの医者がそろって敵になってしまったのです。また、認知症はよくならないという情報が社会に浸透してしまったために、家族からもその治療法に対して懐疑的な見方をされ、協力すら得られないという状況も生じてしまいました。
医者からも家族からも見放されたそのようななかで、この治療法をなんとかやってやろうと、本人・家族から自然発生的にグループができました。われわれはこれを「リコード部」と名付けました。医者がやってくれないなら、自分たちで助け合いながらやってやろうというわけです。認知症の進行は待ってくれません。みんながみんな、のんびり進行する認知症ばかりではありません。1週間単位で悪くなっていく認知症もあります。日々、病気の進行を気にかけながら、素人集団で認知症と戦う日々が始まりました。医者や医療関係者が中心ではなく、患者・家族発で情報を交換しながら治療をすすめていくというグループがあることはとてもユニークだと思います。それも、医学的な理論はしっかりしているものです。頼るのは、アメリカ人医師が開発した理論とわたしたちの勇気だけでした。この治療法をやってみようという医師もようやく現れてきましたが、いまだ患者・家族の主導で行われているのが現状です。
認知症をいかに受け入れるか、そのための社会はどうあるべきかという切り口は御社の記事においてもたくさんみることができました。「認知症とともに」ある社会を目指すことは、素晴らしいと思います。病気になっても人間らしく生きていける社会であるべきだと強く思います。その一方で、「認知症と戦う」人たちがいることも忘れてほしくないのです。そしてそれは、いつできるか分からない新薬の開発をしている一流といわれる研究者ではなく、認知症患者と日々そのものと寄り添って生きている家族であることを。その者たちは、医学的常識と戦いながら、医師・家族・社会的な風潮に逆らいながら、なんとかよりよき未来を切り開いていくんだと日々がんばっています。仲間も少しずつ増えています。患者も若い人から高齢者、病気も軽度から重度の方までさまざまです。国内だけでなく海外からのメンバーもいます。抱える事情はそれぞれですが、大切な人のために認知症と戦うんだという気持ちは共通しています。そして、みな同様の悩みや困難にぶち当たっています。
われわれは多数ではないでしょう。現実を理解しない愚か者と思う人もいるかもしれません。しかし、認知症を病気としてとらえ、それを不治の病気であるという常識を打ち破り治療するために戦おうとしているものにも光を当ててほしいと思っています。それが認知症時代の到来にとって、新しい希望の光になると信じています。

 

世界アルツハイマーデーの日をむかえるにあたって さくら

おばちゃんのいす

おばちゃんのいつもすわってるいすがあるんだけど、背もたれが曲がっててね、背骨のまがってるおばちゃんのせなかとちょうどフィットするの。
ひじ置きがあって、腕をのせてもいたくないように革をまいてるんだけど、つかいすぎてぼろぼろ、表面もはがれてきちゃってる。
しみのついた汚れた座布団が一枚敷いてあって、そこにおばちゃん、じっと座ってさ。ぼんやり、テレビをながめているの。
さくら、目をとじるとそんなおばちゃんのすがたがまぶたのうらに浮かんでくるよ。
ずっと座ってるね。しんどくないのかなっていうくらい。
さくら、わかったよ。認知症が進むにつれ、動くこともだんだんすくなくなるんだって。
なんどもおもらしして、よごれてしまったその座布団にじっとして。
きれいなものにかえられることを放棄されたその座布団のうえに。あきらめられたままに。
おばちゃん、歩かなきゃいけないよっていうと、足うごくよ、ぜんぜん、こんなことできるって、すわったまま足をばたばたしてさ。
おばちゃんは自然体だね。ほんとうに。
さくら、おばちゃんのせなか伸ばしてあげるよって。さくらがおばちゃんの前に立って、両手を引っ張っておばちゃんを立たせて。まだ下を向いているおばちゃんに、おばちゃんのあたまの上から、さくらの顔を見てよっていったら、目があったとたんお互い笑ってさ。
わすれられない光景があるとしたら、意外とそれは、こんな日常的な風景なのかしら。
おばちゃんがこの椅子に座ってテレビをぼんやりながめているこの光景が、さくらの目を見てわらってくれたその瞬間が、何年もあとにさくらがふと思い出す風景なのかしら。

「認知症」で検索してみたら

認知症に家族がなったらどうしますか。今でしたら、どんな病気なのか知りたくて、ネットで検索する人が多いのではないでしょうか。
認知症」で検索してみたら、最初に出てくるサイトは、「認知症について知っておきたい基礎知識 - 相談e-65.net」というものでした。
ここに、認知症はどんな病気であるかの説明があります。認知症は治るタイプもあるから、早期に受診しろと書いてあります。治るタイプとして、「正常圧水頭症」「慢性硬膜下血腫」「脳腫瘍、甲状腺機能低下症、栄養障害、薬物やアルコールに関連するものなど」が挙げられていますね。はっきりかいていませんが、これ以外は治りませんよということみたいです。
えっ、早期発見しても治療法がないの?って思って探してみると、「認知症の治療について」というリンクがみられます。ここにようやく「現在、アルツハイマー認知症を元の状態に戻す治療法はありません。」とはっきり書いてありました。そして、病院で受けれる治療は、「アルツハイマー認知症の治療はご本人が快適に暮らせるよう、またご家族や介護者の負担を軽くすることが治療の目的となります。」ということだそうです。医者に治してくれと泣きついてもどうしようもないことがここから分かります。


せっかく早く気付いてもどうすることもできないのでしょうか。
最近、軽度認知障害(MCI)とよばれているものがあります。簡単に言うと、認知症の一歩手前ということ。
それじゃここで見つかれば、認知症にならなくて済むんだ。そう思って、「アルツハイマー病による軽度認知障害(MCI)って治せるの?」ってページをみてみます。
そこには、軽度認知症は「早期発見と早期対策で発症を遅らせる可能性がある」と書いてあります。そしてそのためには、運動して、バランスよく食事をとって、頭を使えとのこと。‭最後に、悲観的になるなって書いてました。認知症にならない可能性だけあるっていわれて、あとはがんばってねっていわれればだれだって悲観的になるだろうとさくらは思うのですが。

 

このように探すと絶望的な記事に事欠きません。「アルツハイマー病によるMCIとアルツハイマー認知症の違い」については、「アルツハイマー病によるMCIの治療・改善方法については、運動や食事、脳トレーニング、薬物療法など、さまざまな研究がなされており、改善は見込まれない可能性は高いですが、なかには改善が見られたというケースもあります。」とあります。それに続くタイトルが、「アルツハイマー病によるMCIは早期発見が重要」とあっては、もう訳が分かりません。
ようは、せっかく認知症になる前に見つけても、認知症になるかは運任せで、5年のうちにその半数は認知症を発症していくことになります。

 

とにかく、検索で最初に出てくるサイトが読めば読むほど頭が混乱してくるものなのです。
こうして認知症を調べれば調べるほど、絶望に陥っていく。そのような土壌がすでにできあがっています。
ここに、「軽度認知障害、初期の認知症であれば改善する可能性が高い」という記述が入るだけで、どれだけ希望を与えられるだろうか。この一文を入れるだけで、日本の認知症治療をとりまく環境は大きく変わっていくのではとさくらは思っています。
そして、リコード法には軽度認知障害を改善させた実績があります。

 

もっとも、エーザイが新薬を開発するまでは、このサイトにこの一文がはいることはないでしょうけれども。

新しい取り組み

新しい取り組みをいくつか。
アロマをとりいれました。さくらがおばちゃんの家に来てる間は、アロマペンダントをしてもらって、臭いをかいでもうらうようにしました。置いとくと、おばちゃん、ペンダントを服の中にいれちゃうんだよね。これだと臭いもしないし、たぶん、すぐになくされそう。毎回、持って帰ることにしました。
アロマはローズマリー。すっとするようなにおいがするねっておばちゃん、いっていました。アルツハイマーになると臭いがわからなくなるらしいんだけど、おばちゃんはわりと分かってるみたい。
さらに、枕にオイルを5,6滴、ぱぱっとまいときます。夜用に、セージのアロマをまぜました。
いろいろなにおいが脳にいい刺激を与えるみたい。機会があったら、いい香りのするコーヒーをおばちゃんの前で入れてあげたいなってと思ってます。


つぎに、とりいれたのが、野菜。
解毒にアブラナ科の野菜がいいということ。ほかに、アボカドも、良質の脂質を提供してくれるみたい。
アブラナ科の野菜は、ブロッコリーをおもに使用。最初は、サラダにしたんだけど、いまおばちゃん、下の歯が治療で全滅中。
まったくかみきれません。野菜の繊維って意外と固いのよね。ブロッコリーは細胞膜をかんでつぶさないと栄養が出ないとのこと。そこで、ブロッコリージュースを作って飲んでもらうことにしました。

最初につくったのは、ブロッコリーとリンゴのジュース。生のままで作ったせいか、草の香りがふわっと。横にいるさくらにも匂ってきます。ザ・青汁みたいな。ブロッコリーに火を通したりしたらましになるかもしれないけど、栄養素が一部飛んでしまうらしいのでしかたありません。草臭さを消せるようなものをなにかいれれたらいいんだけど。バニラエッセンスでもいれようかな。
これからは、いろんなかたちで、解毒作用のある野菜をなるべく多くとってもらおうと思っています。


ブレデセンによると、リコード法ではいろいろな要素をいれるのは少しずつでいいんだって。通いのさくらは怠惰なせいか、図らずもそうなってしまっていますけど。

 

たった一年前

ふと自分の部屋にある、おばちゃんとした計算プリントが目に入った。しっかりした字で満点である。
日付を見るとちょうど一年前。たった一年前である。

今は同じプリントだが、間違えることも多く数字の形も大きく乱れている。

 

今年の最初におばちゃんの家に行ったとき、おばちゃんはさくらが帰るとき窓を開けて手を振ってくれた。今年は何かいいことが起きそうだな。きっとおこるんだって感じてうれしかった。
でも実際は、悲しくつらい一年の始まりだった。あの時手を振ってくれたのも、今思えば、まだ元気が残っているおばちゃんに最後のさようならをされたような気がした。


リコード法してるけれど、ほんとうはたまに、自分はもう対象じゃないんだって疎外感を感じるときもあります。もう手遅れ部員なんだって。

 

今はただ、おばちゃんと会うのが寂しいです。

知ってほしい

認知症は金儲けになりやすいのだろう。様々な情報が飛び交っているうえにどれも不正確であるからである。弱みを持っている人間は、不確かな情報であっても希望をもちたいと思いそれに飛びついてしまいがちである。
サプリメント、栄養食品、アロマ、運動療法、学習療法、生活指導。早い方がいいですよ。手遅れになったら大変ですよ。これでよくなった人がいますよ・・・
認知症の家族としたら、それらをみたら飛びつきたくなる衝動にかられるのもむりはない。結果、効くかもわからない商品を買わされたあげく、病気は治らないという二重の苦悩を味合わされることになる。

 

さくらも、3年ほど前、サプリメントを買ってみた。というのも、本屋で、認知症は治せるから怖くないというような題の本を買って読んだためだ。
その中で、医師があるサプリメントをすすめていて、これを飲めば認知症が治るというようなことをかいていた。
ネットで探して、二回ほど購入した。指示通り飲めば1か月から早くて10日でなくなる分量だった。価格は、一万円。初回は半額だった。しばらくして、その本を書いた医師が、データーに虚偽があったとして勤めていた大学を懲戒解雇された。もちろん、さくらは購入をやめた。
その後しばらくして、そのサプリメントを販売していたサイトや会社もなくなった。
最近、ふとネットを見ていると、同じ商品が名前を少し変えて販売されていた。価格や売り方も全く同じだった。
販売サイトに、先ほどの医師の名前や認知症が治るとかいていないので、あえて商品名は書かない。ただ、当時、本当に傷ついた。やっぱり、効いたらいいな程度で買ったとはいえ、心の奥底では期待していたから。もう治らないんだとすごく悲しくなった。
いまもやはり、不正確な情報は飛び交っている。これを飲めば認知症がよくなるというサプリメントも相変わらず売られている。それも結構な額で。
でも多くの場合は効くこともなく、ただ時間とお金を無駄に使っただけになる。でもそれ以上につらいのは、心が傷つくことである。大切な人を治すんだという気持ちを大きく踏みにじられたような気持になる。裏切られ、希望も打ち砕かれ絶望にも似た気持ちにもなる。
いまでも、これを飲めば認知症は治るみたいなサイトを見ると、さくらのような人が毎日多く生まれているんだと思い、心が痛む。


多くの人に知ってほしい。今はまだ、認知症は治る可能性がでてきたという段階であることを。そして、その方法はおそらくたった一つのことにあるのではなく、多くの要因をみたして初めて克服できるものだということを。

どうか不確かな情報に惑わされないでください。

認知症はけっして簡単な相手ではないのですから。

意味のないことなんだろうか

ブレデセンと立場の近いミヒャエル・ネールス博士の本の一節に次のような文章がある。
「この治療は、主治医や介護者、家族が患者を支えず、治療の邪魔をするようなことがあったら、失敗に終わる可能性もある」
「患者の家族や友人のなかにはこれを信用せず、生活様式を変えるために膨大な努力をするなど無駄で馬鹿げていると思うものは必ずいる」


義理叔父に、おばちゃんのためにたった一日で終わる検査を勧めたことがある。そしたら、もう歳だ。そんな意味のないことはしたくない、という答えが返ってきた。さらに、来た人の名前をみんな、さくらの名前で呼んでいると。もうあたまがおかしくなっているといってた。


でも、本当に意味がないことだろうか。
自分の子供の名前をふたたび思い出せるように頑張ることが。

いままだ心に残っている大切な思い出、自我を守るための記憶を守ることが。
それをすべて失って、さらに生きていくことこそひどく悲しくつらいことではないのだろうか。


おばちゃんが小さな子供が大好きで、その子たちのために仕事を頑張ってきた。そんな教育者であった記憶を。
兄弟がなかよくて、みんなの相談に乗ってきて、いつも適切なアドバイスをしてくれた。そんな、頼りになる姉であった記憶を。
そして、さくらにとって、やさしくて尊敬される自慢のおばちゃんであった記憶を。
さくらは守ってあげたいんです。