認知症ってなんですか
このまえ、おかあさんたちがおばちゃんにひさしぶりにあいにいってね。はなしはとんちんかんだけど、かおはしっかりしていたわだって。
そういってくれると、さくらもうれしい。でも、リコード法ってもっと根本のほうからすこしずつかえていくようなものだから、効果が出るにしてももっとさきかな。
さくらのほうも、最近じぶんのことでいそがしくって、おばちゃんといっしょにいれる時間がへっているんだけど、義理叔父にそのあいだがんばってもらわないと。ジュース作りはだいぶ定着してきたみたい。リコード法が生活の一部になってくれる、それが一番。
リコード仲間もがんばってるみたいで、さくらができないこといっぱいしていて、ほんとすごいなっておもってます。
たべるものとかにすごくきをつかっていて。さくらはこのへんぜんぜんだめ。
でも、リコード法にとって、糖質やグルテンをへらして、かるい野菜生活にするのはすごく大事なこと。さくらもみならわないと。料理はあんまりできないんだけどね。
おばちゃんには、むかしおかあさんがでかけていないときに、ときどきごはんをつくってもらってたね。なぜか野菜はいっつも温野菜。トマトもきれいに皮をむいていて。
シャキシャキ野菜になれてたから、若かったさくらにはものたりなかったけど。
いまおもえば、からだをひやさないくふうだったのかしら。
そんなおばちゃんが認知症になってあまり料理をつくれなくなってから、さくらといっしょにごはんをつくってね。肉じゃがも作ったんだけど、おばちゃんは覚えてないかな。
さくらがいったら、おばちゃん、もう野菜を切っていて、なべにみずをいれて具をもうぜんぶいれて、ぐつぐつにていて。(あれいっしょにやるんじゃなかったっけ)
あとは、あじつけをしてかんせい。さあたべようって?!
さくら、おばちゃんの料理をたべにきただけじゃないの!
そしたら、義理叔父も器をもって、うしろからついてきて。どうやら、これがこの日のおひるごはんになるみたい。みんな、たたみのうえにこしをおろしてテーブル囲んでね。おばちゃんが正座したのはびっくりしたよ。あしがよこにまがっているのに、そんなことができるのって。でも楽しかった。
あのころのあのひとにもどってきてほしい。おばちゃんのこと考えると、時計の針を戻すような、流れる川に逆行していくような、そんな感覚にときどきおそわれます。
自分がブログ書くようになって、ほかの人のブログもみるようになりました。リコード法をしている人のもしてない人のも。認知症の軽い人も重い人も。若い人もそうでない人も。どれもなんだかそこはかとなくせつないの。
みんな、よりそって、ぶつかって、くるしんで、かなしんで、とまどって、あきらめて、なにかのこそうとがんばって、まよいながらいきている。そんな感じがします。
さくらのひとりごと。
しんどいね。
みないふりをしていたらもっとらくになれるかもしれないのにね。
あなたがすきじゃなかったら、こんなにくるしくはないのにね。
もっとわかってほしいのに、ぜんぜんわかってくれないね。
認知症にむきあわなくって、よこにならんであるくような、そんな生きかただってできるはずなんだけど。
認知症ってなんですか。
さくらにとってはね、認知症は”共存すべき友”ではなく”克服すべき敵”なんです。
おばちゃんも、さくらががんばってること、なにもわかってないね。でもね、それでいいの。なにもわからなくても。ただうけいれてくれているだけでそれでじゅうぶん。