終わりが来るとき
おばちゃんの子供と話をしたんだけど、サプリは飲ませないでほしいといわれました。たぶん、義理叔父が飲ますのが手間で子供にそう言ったんだと思う。
ただ、その根底にあると思うのは、子供自身もサプリの効果を信じていないということだとははっきり感じた。小さな錠剤一つ飲ませることすら拒否したことからもわかる。
言外の意味を理解できるとき、自分が成熟した、いや自分の忌み嫌ういわゆる嫌な大人になってしまったんだなと感じるときでもある。
サプリを飲ませることを説得すること自体ははじめからあきらめていた。なぜなら、向こうは何もリコード法について知らないのだから。無知は強い。
いくら、これはこういう効果があって絶対飲んだ方がいいと話したところで、向こうは、そもそも知らないのだから、あとは信じるか信じないかの問題にしかならない。
けっきょく、さくらが最初の半年で効果を出せなかったことにつきる。くやむべきは、もっと早くマイルドケトーシスを目指すことに重点を置くべきだった。
今後のおばちゃんは、しばらくして家から遠く離れた施設に入ることになるはずだ。もう会うこともほとんどできず、さくらのことも完全に忘れてしまうだろう。
考えると悲しいんだけど、ここが親子でないことの限界だとも思う。
でも、せいいっぱいやったんだ。これは信じてほしい。これまでの5年間よりも、せいいっぱいがんばった1年だった。でも、リコード法って、周りの人の協力がないとできない。信じてくれる人がいないとできない。
終わりが来るときは信じてくれる人がいなくなった時だということは、最初から決まってたことなんだ。
悲しみは通り越したみたい。涙は思ったよりもでなかった。
膝が痛い
昨日のおばちゃんは膝の状態が悪く、歩くのも一苦労。トイレまで行ったのですが途中でへたってしまい大変でした。歩いている最中も、「膝が痛い。膝が痛い。」となんども言っていて、かわいそうなぐらいでした。義理叔父からもトイレから帰るのに座り込んで、這って部屋に戻ったという話を最近よく聞きます。
先週、発熱後、歩くのが今までになく調子が良かったので安心していたのですが、その次の週がこんな状態。高齢者は何が起こるか予測がつきません。おばちゃんに会う日は、いつもドキドキします。
さくらがおばちゃんをトイレに連れて行ったときに、たぶん途中でだめになるだろうとあらかじめトイレの前に椅子を置いておいたんだけど、おばちゃんが座りこみそうになったので椅子に座ってもらったら、前後の記憶がないので、なぜこんなところに椅子があって、自分が座っているのか理解できない様子。そりゃ、トイレの前に椅子があって自分が座ってたら、わかんないよね。そんなおばちゃんのキョトンとした顔がおかしくて。「だれがこれを」って。「そのいす、さくらがもってきたんだよ」って教えると、「そうなの」ってちょっと安心してた。足が悪いのは悲しかったけど、ちょっと笑っちゃいました。
今年の2月は自分で立って、帰るさくらを、窓を開けて手を振ってくれたのになあ。そんなことを思い返し、ふたたび来る冬に切なく思う年末です。
つながり
急な発熱で心配したけど、椅子からすっと立ったり、歩くのもまずまず。熱も下がってるみたいでほっと一安心。
サプリも次の日から再開してもらうように義理叔父に伝えた。
ケトン効果を信じて、ケトンエステルを1日3回体制にして10日。
さくらとしては、これが最後の切り札。今月になんらかの変化を期待している。
とくに会話にいい変化がでてくれば、さくらも幸せに年を越せるんだけどなあ。
今日は時間があったので、おばちゃんと一緒に貼り絵をしたり、おしゃべりをいろいろしました。
最近、おばちゃんの話を聞きたくて昔のことをよく聞くんだけど、ふと気がつくと、会話の中に自分とのつながりをさぐっているさくらがいます。
昔、いっしょにこうしたねとか、さくらはどんな子だったとか。
変わらない優しい目で見られると、病気のことを忘れて、なにもかわらない時間が流れていくような気がします。
おばちゃんへ
ひとつ聞いてもいいですか
おばちゃんの瞳にうつっているその人は、あなたのしってるわたしですか