希望は苦しみ
いままであまり、リコード法についてお母さんにはなしをしていませんでした。
あまり心配をさせたくないというきもちがさくらにもあったので・・・
今度、テレビでリコード法の放送があることで、お母さんにちらっと・・・
「アメリカでね、いま、アルツハイマーの治療法がだいぶんとすすんでてね、
あたらしい治療法が日本にも紹介されるんだよ、
こんどね、テレビでそれをやるんだ、
日本にもみてくれるお医者さんがいるみたいなんだけど、
テレビで放送されると予約が取りにくくなるね、
おばちゃんにもできることやってるんだけど・・・
すごくむずかしいんだよ、
まわりの協力がひつようなんだ」
「おじさんはなにもやってくれないよ・・・むすこはよりつかないしね」
「・・・見殺しだね」
「・・・そうだね」
リコード法が電波にのって多くのお茶の間にひろがって、なにがかわっていくのだろう。
リコード法を知ることは、助かる可能性をしるってこと。
しらなければ、あきらめもつく。でも、しってしまえば、あとで「ああすればよかった」「こうしたらよかった」ってつらいおもいをしなければならない。
リコード法なんてしらなければよかった・・・
つらい選択になるかもしれない。苦しむ人が出てくるかもしれない。
希望は苦しみ。多くの人がきずつかなければいいけど・・・
いまもさくらはぜんぜん、十分なリコード法をおばちゃんにしてあげれていません。
でも、まだできることはいっぱいあると信じています。まずは、朝のパンを米粉パンに変えてあげよう。グルテンダイジェストも義理叔父がのませてくれている。義理叔父の買ってくるコロッケは無理かもしれないけれど、配食サービスもなにか方法はあるはずだ。
運動だって、すくないけれどさくらが手伝ってあげる。寝るのは・・・おばちゃん、とくいだったね。
義理叔父も少しずつ変わってきている。なんとなく、そう感じます。(ただの願望?)
ひとってかわっていくんだってさくら信じています。
さくら、おせっかいなんてするもんじゃないっておもってた。そのひとのしたいようにすればいいって。うっとおしいだけじゃないのって。
でもね、さくらもかわったみたい。
おせっかいやいてあげるひとがいてもいいじゃない。すきにすればってつきはなすのもいいけど。
すじをとおしたいんです。なんとなく。せっかくはじめた関係だから。